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『沈黙の聖者』−ラマナ・マハリシ-その生涯と教え− |
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シュリ・ラマナシュラマム編著/柳田侃監訳
ISBN4-915497-36-4 C0014
A判上製 初版/1998年9月
2800円+税
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「私は誰か」、「真我の探究」で知られる今世紀最大の聖者・南インドのラマナ・マハリシの生涯を、貴重な写真二百数十点を交えてひもといた伝記。
沈黙こそ至高 の言葉と語り、自ら生涯、真我の中に留まり続けた聖者のシンプルで感動的な生き方 と教えが今明らかになる。
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【目次】
第1章 ティルチュリ
第2章 覚醒
第3章 魂の故郷への旅
第4章 合一の至福
第5章 帰還の問題
第6章 アルナーチャラ
第7章 ヴィルパークシャの時代
第8章 スカンダシュラム
第9章 シュリ・ラマナシュラマム
第10章 信奉者たち
第11章 永遠なる存在
第12章 教え
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私は誰か
心が静まらない限り純粋な真我は悟られることはない。心は想念の束以外のなにものでもない。すべての想念の中でまず第一にあげられるものは、心の根源にある「私」という想念である。それゆえ「私は誰か」という探求を通してのみ心は静まる。心を常に内に向け、そのまま真我と同じ場所にあり続けることだけが真我の探求なのだ。
心の本質についての不撓不屈の絶えざる探求によってのみ、心は「私」の依りところである。”それ”に変容される。それがまさに”真我”なのである。
「私」として肉体の中に現れてくるものが心だ。この私というものが最初にどこから現れたのか探求すれば、その場所が”ハート”もしくは、”フリダヤム”【訳注:胸部の右側にある意識の座】であることが分かるだろう。
外に向かって行こうとする心を抑制し、それをハートの中に吸収させておくことは、アンタルムッカ・ドゥリシュティ【訳注:心の内部を見ること】、あるいは内向として知られる。心が”ハート”の中に吸収されてしまうと、「私」あるいはエゴは消え去り、心がどのような状態のときでもずっと存続してきた”純粋意識”あるいは”真我”だけが光輝く。「私」という想念の痕跡が跡形もないこの状態が人の真の”スワルーパ”【訳注:それ自身の性質】である。それは静寂あるいは”モゥナ”と呼ばれ、言うならば真の知恵でもある。
真我だけが存在し、真我だけが実在である。まことに真我だけが世界であり、「私」であり神である。存在するものすべては、至高の存在の顕れにすぎない。真我のゆるぎない完全なる特質は、いうなれば至高の主への自己放棄の根幹をなすものである。主はいかに多くの重荷を課せられても、そのすべてに耐える。
至福であることがまさに真我なのである。至福と真我とはまったく同一のものである。そして”それ”だけが実在なのだ。世界の無数の事物の一つの中にさえ幸福と呼ばれ得るようなものはなんら存在しない。この現象世界は想念以外のなにものでもない。心が想念から解き放たれたとき、真我やブラフマンから決して遠離はしない。
好嫌、愛憎は等しく避けるべきものだ。心を世俗の世界の出来事や対象物の上に留めておくことは、正しくない。自我が静まると他のすべてのものも自然と静まる。私たちが他人に対していっそう謙虚にふるまえばふるまうほど、私たちにとっていっそうよい結果をもたらすことになる。他人に与えるもののすべてが、本当は自分自身に与えられるものなのである。自分自身に無関係のものを何も欲しがらないということがヴァイラーギャ(離欲)または平静である。真我にしがみついて放さないことがジニャーナ(知恵)あるいは悟りである。それゆえヴァイラーギャとジニャーナは実は同一のものなのである。ヴァイラーギャの誓いを立て、すべての求道者は自らの内に深く沈潜し、高貴なアートマン、究極的実在としての真我を悟らなければならない。
神とグルとはひとつである。グルの恩寵をもたらされた者は疑いなく救われ、決して見放されることはない。弟子は、グルによって啓示された道を歩んで行かなければならない。
(第7章 ヴィルパークシャの時代より<抜粋>) |
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