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ジャムゥ・トリートメントが、いつ、どこで、なぜ、いかにして発展したのか? また、その効果は、ほんとうのところどうなのか? ジャムゥを理解するためには、それが生まれた少し風変わりな国についても知っておくべきであろう。 インドネシアは一万七〇〇〇の島々に、六〇〇の異なる言語を話す二億以上の人びとがひしめく国である。国家的モットーは「多様性の統一」。各地域社会がいまだ独自の慣習や文字を保有する島国にあって、たしかに有意義なものといえよう。 忙しい現代社会。インドネシアの若者には、手で布を織ったり、ガムランを演奏したり、薬草を処方したりするような古い伝統のために費やす時間はも はや残されていない。これらはすべて、島々のいたるところで社会の数だけのバリエーションのあった穏やかで全体的な生活様式の一部だった。が、こんにちの インドネシア人は目まぐるしく動きまわる世界経済のなかに身を置いている。われわれ同様、猛烈な競争を強いられ、ハイテク環境と折合いをつけていかなけれ ばならないのだ。 そのため、家庭でジャムゥが手づくりされることは、ほとんどなくなった。ジャムゥは工場で大量生産される商品になった。 産業の発展がゆっくりした時代では、ジャムゥのレシピを秘密にしようとする者などいなかった。それも、いまでは変わってきた。迅速な産業化が逆説 的にジャムゥをリードするようになったため、伝統薬の需要に拍車がかかったからだ。ようするに、マネー・ゲームの対象になった、ということである。 かつては、薬草のレシピは母から娘へと伝えられていった。また、ジャムゥの調製にすぐれた人びとは、隣人の相談を受けた。受容は、けっきょくは小さなファミリービジネスに帰着した。彼女たちは、こんにちのジャムゥ・コングロマリット(複合企業)の先駆といえよう。 いま、製薬の中心は家庭から現代的な工場へと場を変え、製品は主に屋台や雑貨屋に置かれている。こうしてジャムゥは、アジアの神秘的なローショ ン、ピル、調整薬として西洋人の目に止まり、じっさいに買い求めることも、インドネシア以外の国で用いることも可能になったのである。 この本は、インドネシアの生薬、トリートメント、化粧品についての入門書である。調剤はすべてシンプルで、実用的で、エキゾチック。高くつくことはまずない。 古代ジャワ・トリートメントの思想と技術は、 「内の健康と外の美とのコンビネーション」 という全体的なアプローチを具えたものである。西洋医と美容師たちはたった今この考えを見出したように思っているが、ジャワの人びとは幾世紀にも わたってそれを実行してきた。インドネシア人たちは、生薬とマッサージがよく効くことを知っている。それゆえ、これらナチュラルな医学は、今後も繁栄をつ づけるだろう。 本書の読者は、ジャムゥを完成に導いた古代ジャワのクラトン(宮殿)のとばりに隠されていた自然医学の世界について知るであろう。代々受けついできた〈いやし〉の術に長けた治療師とジャムゥ師に出会うことができよう。 しかし、内外の美についての正確で科学的な解説を求めているのであれば、ここで見出すことはできない。そのようなものは、これから明らかになる理由のために、はじめから存在していないのだから。 「付録」では、家庭で安全に作ることができるジャムゥ・レシピも紹介した。 これら情報は、インドネシアの健康と美容についてもっと知りたい人、研究したい人、自分のためにジャムゥを試してみたい人のためにある。 ジャムゥに対する私の態度は、インドネシアで生薬の調査をするうちに、懐疑心から信頼に変わっていった。正しく選ばれ、賢く用いられれば、能く効く、という確信である。 インドネシアの町や都市を徘徊するとは、暑熱と湿気、カミカゼ・ドライバー、そして街路にあふれる物売りたちにさらされることを意味している。 くわえて歩道の欠如は、私から運動を奪った。 運動不足は、ウエストまわりの忌々しい肉となって現れた。運動療法が求められた。私は、エアコンのきいたジムでのエアロビクスを選んだ。しかし、四二年の齢を重ねたわが身は、新たな試みに対処できずにいた。 膝のこわばった痛み……。 私はつぎの三つからどれかを選ぶことにした。 (1)鎮痛剤なしでエクササイズをつづける。 (2)鎮痛剤を服んでエクササイズをつづける。 (3)エクササイズを棄てて、デブになる。 (2)が勝利し、私はエクササイズをつづけた。 ある日、髪を手入れするために入った美容院が、私のすべてを変更させることになった。髪をいじられているうちに、サロンの隅にある生薬クリニックに気がついたのだ。 女性の売り子は、私の症状について説明し、クリニックの医師に診せた。医師はインドネシア伝承医学のエキスパート本草学の伝達者でであった。 「クスリ、できた?」 とクリニックに電話をかけたのは二日後のこと。驚嘆すべき出来ごとは、このときから始まることになる。 私は、小っぽけなピルの入った小ビン二本を受け取った。 「即効を期待しないように。効きは遅いが、しかし確実にラクになりますよ」 医師はいう。 朝にクスリ十粒服むことを二日続けて、いつものエアロビ・クラスに参加した。 三日目には、痛みはほとんど消えていた。しかし私は奇蹟を信じない。たんなる偶然と見なした。 定められた量の1/3だけ服むことにした。たちまち痛みがぶり返す。 定められた量にもどすと、痛みは引く。それでも私は懐疑的だ。痛みもいずれ戻ってくるだろう、と。 しかし、そうはならなかった。半年後には、苦痛から完全に解放されていた。 感動した。と、こんどは好奇心をそそられた。 「ジャムゥを勉強したいっ!」 そう思って書店に走った。しかし、英語のジャムゥ本は一冊もない。インドネシア語のものは、レシピしか書かれていない。探究心に、ぎゃくに火がついた。
私は、夫といっしょに中部ジャワに行き、ジャムゥ薬剤師のイブ・スリと会った。 イブ・スリは私を薄暗い台所にみちびいた。そこが、彼女の仕事場だった。 彼女は自分のやりかたについて説明し、 「さあ、あたしのジャムゥ、服んでみぃ」という。 (やだ) 私は躊躇した。台所の壁に不潔そうな黒くすすけた中華鍋の尻がいくつも並んでいたからだ。私は、イブ・スリが鍋のひとつを手に取り、ピカピカに磨かれた内側を見せてくれるまで、考えていた。 (なぜ、彼女は内側だけキレイにしてるのだろう?)こんどはそれをいぶかしんだ。 「鍋の外側にスス付けとくと、熱効率がよくなるだよ」彼女はいった。 私は頭を下げて、沈黙した。目が薄闇に慣れてくると、台所が、原始的ではあるが、ひじょうに清潔に保たれていることに気づいた。 イブ・スリは、私の夫に、枯草色した漿でいっぱいになったコップを手渡した。 夫は一気に飲み干して溜息をつき、うまい、といってイブ・スリの作品を讃えた。 おつぎは私の番だ。 まず、ブラス・クンチュルBeras Kencurをテスティング。 「うん、スパイシーで、けっこうイケる」 しかし、イブ・スリが中華鍋に入った水藻のような液汁をオタマですくい、私のコップに入れてかき混ぜ始めると、やっぱり心配になる。さらに悪いことに、イブ・スリはコップの横にシロップを入れたオチョコを置いたではないか。私は知っている。 (とりわけ苦いジャムゥだということだ!) 「プガル・リヌゥだぁ」 イブ・スリは、のんびりとした口調で私の症状を言い当てた。 プガルpegal≠ヘ「こわばる」、リヌゥ1inu≠ヘ「リューマチ」。よって、プガル・リヌゥ≠ヘ「リューマチ性の硬直」と訳され、同時に「リューマチの苦痛を和らげる医薬の処方箋」を意味するのだ。 私は、深呼吸をしてから、その気色の悪い水薬を、ネクターのように飲みこんだ。シロップは苦味をわずかに緩和している。 しかし、深夜まで起きていても、効果は現われない。ダメだ、こりゃ! 翌朝五時、 (ヒザはきっと、死ぬほど痛くなっているにちがいない) 私はそう思いながら、目を覚ました。しかし、かつてない爽快感が私をつつんでいた。一種の超常現象といってよかった。私には濃厚なエネルギーが充填されていた。 (これが生きてる、ってことなんだ!) 新鮮な感情があふれていた。 イブ・スリのつくってくれたジャムゥの原料は、料理にも用いられるものだ。けっして特殊なものではない。これも私にとっては「新発見」であった。つまり、日常の食事の、ちょっとしたバリエーションともいえるのだ。 その瞬間、私は――ハマッた。 私は、ほかの人も私の経験から恩恵を得ることができるのではないかと思い、真摯にジャムゥの研究をはじめた。そして、ジャムゥをささえる原理である古代インドネシアの伝承医学にぶちあたったのだ。 その長年にわたる研究の成果が、本書である(序章より)。 |
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