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聖者シリーズ

『ゴッド・ラブズ・ファン』─生きることが楽しくなる本─
   

ラビシャンカール著/シュミッツ千栄子訳
ISBN4-915497-79-8 C0014 
四六並製 初版2刷/2005年9月
1600円+税 
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さあ、目を覚ましましょう!人生には苦闘、不満以上の意味があります。シュリ・シュリ・ラビ・シャンカールの講話をまとめたこの本によって多くの人々の暗雲が吹き払われ、笑顔が戻ってきました。歌い、祝いましょう。なぜなら神様は楽しいことがお好きだからです!


【目次】
第一章 神様は楽しいことがお好き
第二章 本当の愛
第三章 実践的でスピリチュアルな人生のための四つの方法
第四章 心からの笑い
第五章 自分の感情と向き合う
第六章 神の本質
第七章 愚か者の意味


 
 賢者は四つのものを持っていると言われています。自分の内側および外側に関する四つのテクニックがあります。それはサーマ(Sama)、ダーナ(Dana)、ベーダ(Bheda)、そしてダンダ(Danda)です。

  社会で人々とうまく交わり、賢く生きるためには、先ずサーマを使います。サーマというのは、物事を平和的にお互いに理解し合うことを通して解決していくことです。それがうまくいかなければ、次の方法を試してみます。

  二つ目の方法はダーナです。ダーナは、人々がなすがままにさせ、それを許し、そのための場を作ってあげておくという意味があります。人々が、自分たちに場が与えられているのだと気づかなかった場合、三つ目のベーダが使われます。

  ベーダは区別するとか、識別するという意味があります。違いを作り、意識的に差を作り出すのです。それでも人々が鈍感な場合、まず彼らと話してみてください。コミュニーケーション不足だから色々な問題が生じるのです。もし、きちんと話し合うことができれば、公平になれるのです。それが、うまくいかないときには、愛をもって無視することです。もし、誰かが過ちを犯したときは、その過ちを無視するのです。注意を払うことはありません。自分たちで気づくようにさせるべきです。それでも気がつかない場合には、ちょっと違いをつけるのです。ベーダは違いを作ることです。もし、そこに二人の人がいれば、一人をひいきするのです。そのようにすると、もう一人が自分が何か間違っていたのではと気づきます。

  ダーナの場合は何も違いを作らないということです。両方を公平に見てみましょう。これは重要なことです。世の中を見ると、ベーダがよく使われています。違いを作っているのです。でもそれは何らかの意図で意識的にやっているものではありません。それはあなた自身の無意識から出てきます。ですから、意識的に違いを作ってください。敏感な相手ならば理解してくれます。

  それでもわからないなら、棒を持ちなさい。この最後の方法がダンダです。相手が違いに気づかないとき、どうしたらいいでしょう。棒を手に取らなくてはなりません。棒を取れば道を歩ませることができます。子供たちでさえこれは理解できます。敏感な子供なら、父親や母親が少し怒っているのがわかると、身を正します。彼らは、「お母さん、お父さん、怒らないで。いい子になるから見ていてね」と言うでしょう。しかし、子供たちの中にはあまりに鈍感で、棒を持って接する必要があるときもあります。ですからダンダを使います。これらは人間と対峙するときの方法です。四つの英知ある方法です。

  この四つの方法が心の営み、存在にも適用されます。しかし、内面的な生活の場合には順番に扱うわけではないのです。平常心のサーマが冷静を保つのに役立ちます。もし何かを楽しいと感じれば、それをちょっと眺めてみましょう。もし何か不愉快に思ったとしても、それはどうということはないのです。それを冷静に見つめてみましょう。瞑想やヨガなどはすべてサーマに関係していて、マインド、つまり内面世界を穏やかにするためにあるのです。しかし、多くの人にとって、平常心をもって物事を観察するのは困難です。

  それからダーナ。ダーナは心を乱し、平常心から遠ざけるものをすべて捨て去ることです。何があなたを乱すのですか? 何か間違った事をしたときの後ろめたさですか? 何かすばらしい事をやりとげたというエゴイスティックな感情ですか。このような感情とか、マインドの全体、プラスもマイナスもすべてを手放して、ゆだねるというのがダーナです。(略)


  あなたのマインドはあなたの大きな問題です。あなたの悩みの種です。マインドは「あなたは良い行いをした」と言っては、あなたを誇らし気にさせます。そして、「あなたは悪いことをした」と言っては、意気消沈させます。あなたは何をしたのでしょうか。何かの想念が浮かんできて、あなたは無意識に行動をとりました。ほかの想念がやってきて、今度はあなたはその想念に気づいて、「行動すべきかどうか」と考えました。それも想念のしわざです。このようなことをやるのはあなたの本質なのです。もし内面に緊張があったらマイナスの行動をとり、緊張感がなく内面が自由であったら、プラスの行動を引き起こしたでしょう。だからどうなのでしょう。実は、その間にあまり違いはありません。

  マイナスの行動は苦しみをもたらしますが、その苦しみはずっと続くものではありません。苦しみは一時的であり、そのうち消えてしまいます。プラスの行動はあなたを楽しませ、喜びをもたらしますが、そのうちそれも消えてしまいます。あらゆる行動とその結果は消えていきます。同じであり続けることは不可能です。良い行動をとっても、「時間の制限」があり、そのために消えてしまうのです。それは映画のチケットを買うようなものです。映画が悲劇でも喜劇でも、いつかは終わるのです。ただ映画の場合は、つまらなかったら途中で出ていけるという点が、人生とは違います。(略)

  ダーナというのは、身をゆだねることです。これは今世界で一番誤解されている言葉です。身をゆだねると言っても、それは奴隷になることではありません。それは誰かに押しつけられるものでもありません。それは自然と起こることです。愛や感謝や信頼から生まれるのです。恐怖心があるなら、その恐怖心を捨てなさい。信頼することによって恐怖心がなくなれば、それが身をゆだねるということです。もしまだ疑っているなら、何もしないで、ただ見ていればいいのです。呼吸して瞑想します。それが疑う気持ちを取り除きます。ほかに猜疑心(さいぎしん、ルビ)から抜け出す方法はありません。

  疑うということには四つの種類があります。最初の疑いは自分についてです。「これが私のためになるとは考えられない。まだ時間がある。きっとゆっくりやっていくべきだ。まだ時期が早いのかもしれない。これは私には合わないだろう。私はどんどんやっていくタイプの人間ではない。そういうことは私にはできない。私はこのような人間だから。私には古いやり方がぴったりなんだ。そこから抜け出すことなんてできない」このように自分を疑い、自分の能力を疑うのです。自分の能力について何がわかっているのでしょうか? あなたは自分の能力が本当はわかっていないのです。ですから疑ってしまうのです。(略)

  そして、最後に自分が成功していても、本当かどうかとその体験を疑うのです。あるコースに参加した男性がいました。彼はすべての事について混乱していました。私はこう尋ねたのです。「どんな経験をしましたか?」「わかりません」と彼は言いました。「よく、休むことができましたか?」と私が聞くと、「わかりません」と答えたのです。「疲れましたか?」と次に聞くと、「わかりません」と彼は答えました。「疲れているか、疲れていないか、どちらかしかないのですよ」と私は言いました。彼は「わかりません」と答えます。「あなたはここにちゃんといますか?」と聞くと「わかりません」と。まるでジョークのようですが、彼は自分がそこにいるということさえわからなかったのです。それで私は言ったのです。「あなたは悟っています。私の言っていることは本当ですよ」と。そのような事が実際あったのです。自分がそのような経験をしたかどうかを疑います。「それは本当だろうか。想像ではないだろうか、何なんだろうか。成功できるだろうか」。これは体験を疑うことです。自分が修行に成功したのを疑います。

  この四つの疑いは私たちの進歩の障害になります。猜疑心が出てきたらそのマインドをゆだねて、捨てましょう。「よし。私はこのマインドを捨てよう」と。自分の重荷になっているのです。

  判断するということ。あなたはどうやって物事を判断するのでしょうか。あなたは自分を通じて、意識のある状態から判断を下します。ですから、ほかの人を判断するとき、あなたは自分の中にある相手を見て、判断しているのです。

  我がとても強い人がいて、彼はみんなと喧嘩しました。あるとき彼は私の所に来て「先生、あなたはご自分の周りに我の強い人ばかり集めましたね」と言いました。私は「どうしてそんな事がわかるのですか。あなたは、他人の中に自分を見ているんですよ。あなたは我が強いので、ほかの人も我が強く見えるのです。それもいいでしょう。我が強いのがひとりぐらいいるのはわかるし、二、三人でもわかります。でも、もし私の周りにいるすべての人が我が強く見えるのなら、それはあなたの自我がさせているのです」。実際、彼は我の強い性格の人でした。

  マインドは自分の目を通して見ています。自分の疑い深いマインド以外ならなんでも信用できるかもしれません。マインドはあなた自身のことさえ疑うのです。疑いを捨てるということは、あるがままに身をゆだね、判断することを捨てるということです。私が「判断を捨てる」という場合、バカになれと言っているのではありません。叡智を得る方法なのです。

  内面的な成長にかかわる二つ目はダーナ、とても重要な「与える」という行為です。「与える」の中には「許す」も含まれています。身をゆだねる心と愛がなくては、瞑想は無味乾燥となります。瞑想のための技法を一〇一個学ぶことができるでしょう。技法をを次から次へと会得していくことはできます。人は、「この技法は知っている。前にやったことがある」と言うでしょう。が、以前にやったことがあると感じるのは、実はやったことがないのです。何かやろうとするとき、それはいつも新鮮に感じられなくてはなりません。毎日が新しいのです。

  愛がその実践を新しく、新鮮にするのです。愛があなたの技法、進展、成長に栄養を与えてくれ、それを前進させてくれるのです。あなたが誰かを愛しているとき、「今日、経験している愛情は古くさい。もう何年も愛してきたし、もう古くてかび臭くなっている。もう十分知り尽くしている」などとは思わないでしょう。そこにはいつも新鮮で新しいものがあります。それは愛です。ですから、技法は何でもいいのです。愛を持って、実践してください。ただ手に棒を持つだけでもいいのです。その棒に愛を持ってください。それはあなたの息吹(いぶき、ルビ)です。愛は不可欠なものです。記憶が、愛をブロックしたり阻止することもあります。

  比べるということについて。「あれよりこっちのほうがいい。これは、あっちよりいい」といろいろ私たちは比べます。何が何よりいいのですか? 今が一番最高なのです。今が最高と気づいたとき、それが悟りです。「この技法の方がそれよりいい。あのコースの方がこのコースよりいい」あれこれ比べるのをやめましょう。それは、マインドの幻想です。私が言っていることがわかりますか? これは幻想なのです。今のこの瞬間が一番最高なのです。それが、ダーナ、つまり「与える」ことです。

  マインドがあちこちさまようときは、放って置きましょう。押さえておく努力は必要ありません。力づくで何かさせようとしてはいけません。行きたいところに行かせましょう。後をつけていって、そして連れ戻してくるのです。それがダーナ、許すことです。「私のマインドはナンセンスでいっぱいだ。もう、マインドなんていやだ。マインドがあるからこそ、ねたんだりするし、そんなのは嫌だ。まったくマインドは悪い」などと言う必要はないのです。自分のマインドを嫌いになることはありません。許してあげなさい。「私のマインドがそんなくだらない事に夢中になるなんて、それは無知だからだ」と言えばいいのです。そうすると、マインドと争わなくてすみます。いろいろな問題の中で一番大きいのは、マインドと争うことです。

  次に来るのはベーダです。ベーダは識別をすること、消滅していくものとそうでないものを識別していくことです。この肉体は空洞で空っぽです。私たちは、自分たちの体がいかに空になっているか気がつきません。体全体を小さな封筒に入れてしまえるくらいです。これがあなたの肉体です。さあ、受け取ってください。中は空間だけです。あなたはこの空間なのであって肉体ではないのです。

  体を見ていると、良い感覚も悪い感覚も生じます。だからといってどうなんでしょう。見ているうちにみな消えてしまいます。

  悟りとは、ある感覚を経験するだけではありません。何が起きているのでしょうか? 多くの人たちががさまざまなクンダリーニ体験をします。あちこちで、こちらの瞑想をしたり、あるチャクラを開けたり、別のチャクラを開けたり。一体何をしているのでしょうか? ただ、感覚を弄んでいるだけです。それを鍼でためすこともできます。鍼でいろいろの所に針を刺していきます。またあなたはどなったりしてエネルギーを上げたり、下げたりすることもできます。でも、私たちは気づいていません。これらのことが、全部無駄だとは言いません。活力を与えるという点で意味はあります。あなたのマインドを、少しだけ、今のこの瞬間に連れてくることができます。でもただそれだけです。それ以上のことはありません。それは、空間と空と完全性を意味する「大我」や、「存在」についての知識を与えることはできません。

  人々は、それがゲームであるようにさまざまな感情を味わうので、何かがこちらで起きたり、あちらで起きたりします。これは起きていることです。見ていると、エネルギーが自分のあらゆる毛穴から、ゆっくりと流れ出ています。よく観察するとどこからも均等に流れ出ています。それはバランスを壊すものではなく、バランスを作るものです。そして、あなたは次のように思うでしょう。「私はそうではない。私はこの肉体でも、この感情でもない。私はあれこれと、感情にいつも反応してきた、毎年、そして生まれ変わるたびに」。そうやって物事を眺めることが覚醒です。すべての感情や体の中の感覚を見つめてください。それを超えてください。「ユーリカ! 見つけたぞ」と。私は何を見つけたのでしょう。私は自分の誕生の原因を見つけたのです。何が起きたのでしょうか? 感情が生まれ、それがほかの感情や印象を作り出します。求めたり、反撥したり、感情を持ったりすることにより、私の人生、エネルギー体や肉体が作られ、次の生から次の生へと導かれてきたのです。

  どの感情もそれが持つ独特の性質と性格があります。自分がなぜかとても気分が良いときは、何が起きているでしょう? 感情が上に上がっているのです。気分が悪いときは、同じ感情が下に下がっているのです。良い気分が上、嫌な気分は下です。見ていてごらんなさい。すべてのエネルギーが下がって気分の悪い感情が起きているときは、頭がぼぅっと空っぽに感じられるものです。

  あなたの体には、感情と関係しているセンターがあります。ねたみや、傲慢心や、執着心を感じるときにはおなかで感じています。愛、恐怖心や憎しみを感じるのは心臓のあたりです。悲しみはのどです。窒息しそうに感じるのはのどの感覚です。感謝ものどで感じます。感謝でいっぱいになると、のどをしめつけられているように感じます。そのようなとき、言葉を話すことができません。怒りは額です。意識もそうです。意識が緊張している人は怒りっぽくなります。ぼうっとした、眠い人はあまり怒らないでしょう。どの感情も、肉体にある決まったパターンの感覚を引き起こすのです。自分の体を観察するだけで十分です。自分の体を見つめていると、他人の事など考える時間はありません。ほかの事を考える時間も、ほかの人間についてどうのこうの言っている時間もないでしょう。(略)

  違いがわかるのがベーダです。あなたができる三つ目のことは、永続するものとそうではないものの区別です。仏陀はこう言いました。「あらゆる感情を見てみなさい。それは永続するものではありません。私はそのような感情から自分を切り離します。肉体に起きることはなんであっても、それが起こるがままにさせなさい」と。悲しみが起きるとします。彼は「それは長続きしません。変化していきます。私はそれと関わるのをやめて、その感情を見つめることにしましょう」と言います。そうすると、その感情は強くなってやがて消えていきます。快い感情も同じです。それをしっかり掴んでいると、やがてすべての快い感情が消えて、あとで少し痛くなるのがわかります。痛みの感覚や嫌悪感はなかなか消えていかないようです。ずっとついて回ります。

  ですからベーダです。ベーダは永続的なものと非永続的なものを見ることです。この非永続的な肉体でさえ、それに注意を向けるだけで、あなたは意識の輝きとなるのです。それは肉体ではなく光であり、意識です。それは、チェタナ、チティであり、体のすべての毛穴から出てきます。ろうそくには芯がありますが、芯は灯火でも光でもありません。芯は暗くて醜いものですが、灯火は美しい。あなたも同じです。肉体は芯で、あなた自身は灯火なのです。芯から、光に意識を移してください。歩いたり、食べたり、座っている瞬間、自分の身体が空洞で空っぽなことに気づいてください。それはひとつかみの灰、灰になるものです。自分の意識がろうそくの芯から灯火に移ったとき、マインドが安定します。これがベーダの状態です。

(第三章 実践的でスピリチュアルな人生のための四つの方法より<抜粋>)

 
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